お墓と供養の歴史
皆様こんにちは。陽の葉やスタッフでございます。 境内には秋のやわらかな空気が広がり、 木々の色づきも少しずつ深まってまいりましたが、いかがおすごしでしょうか。 皆様はお参りにいらした際、境内にある歴史ゆかりのお墓をご覧になった事はありますか? 妙行寺には、お岩さんや浅野家など歴史にゆかりのあるお墓があります。 今回は、そこから見えてくる「お墓と供養の歴史」についてわかりやすくご紹介したいと思います。 浅野家は忠臣蔵で知られる家系ですが、当主であった浅野長矩のお墓は、家臣たちとともに別の場所にあります。ご存知、有名な泉岳寺ですね。 一方、妙行寺には当主の祖母と義理の妹が眠っており、さらに正室・瑤泉院(ようぜんいん)の供養塔があります。 「浅野家のお墓」と聞くと浅野長矩のお墓があるように思われるかもしれませんが、実は少し違うところが興味深いですね。 このように、ゆかりの寺院が複数存在することは、歴史上の人物では珍しいケースではありません。武田信玄や徳川家康にも、各地に墓所や供養塔が伝えられています。 そこで今回は、なぜ一人の人物にゆかりの寺院がいくつも存在するのか、その理由や背景について調べてみました。 すると、当時の日本に根づいていた習慣や考え方が深く関係していることが分かりました。 日本には古くから「両墓制」と呼ばれる習慣があり、ご遺骨を納める場所と、故人の霊を祭る場所を別々に設けることがありました。 そのため、ご遺骨が眠る墓所とは別にお参りのための供養の場がつくられ、結果として複数の寺院にゆかりの墓所が残ることもあったようです。 また、宗派との関わりや政治的なつながり、その家ならではの事情などから、 「このお寺でも供養したい」 「別のお寺にもお墓や供養塔を建てたい」 という思いが重なり、複数の寺院が関わるようになった例も少なくありません。 さらに、ご遺骨を分けて納める「分骨」や、遺品などを納めて供養する供養塔など、お墓の形そのものも時代とともに変化してきました。 こうして見てみると、お墓は単なる場所ではなく、その人を想う気持ちや時代の背景が重...